患者さんとともに励まし励まされて歩んできた50年の道のり
宮城県石巻市中央2丁目7-6 須田第二歯科医院
須田信之先生
父子が”てんでんこ”に歯科医院を開業
牡鹿半島のつけ根にある港町、宮城県石巻市。ここに1973年1月、須田信之先生は須田第二歯科医院を開業した。それから間もなくして須田先生は「ZOOM UP4号」に登場され、「学究肌の先生」と紹介されている。その記事中には、まだご存命であった歯科医師のお父さま(信庸先生)が取材中に顔を出され、取材スタッフにねぎらいの言葉をかけられたこともつづられている。
▲1973年 ZOOM UP4号「診療室拝見」コーナー
あれから約50年。この間、須田先生の人生には多くの喜びと深い悲しみが訪れた。そうしたとき、いつも須田先生のそばにあったのが歯科医師になりたての頃、アメリカの友人から贈られたお祝いの額にある第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの言葉だ。
“I like to see a man proud of the place in which he lives. I like to see a man live so that his place will be proud of him.”
(自分の住む町を誇りにおもっている人に出会うととてもうれしい。また、その町の人たちが彼を必要としているならばなおのこと素晴らしいことです)
人のために尽くしたいという思いが強かった須田先生がお父さまと同じ歯科医師の道を選んだのは自然なことだった。日本歯科大学に進学し、学生時代はバスケット部や医療制度研究会に入り、友人や先輩と交流を深めていった。卒後は、“エナメル質より硬い”といわれていた病理学教室の須賀昭一教授のもとで硬組織の研究にいそしんだ。須賀教授から研究者になることを期待されていたが、須田先生は臨床の知識も身につけたいと、新設されたばかりの東北大学歯学部に移る道を選んだ。「須賀教授は少し落胆されていましたが、私の気持ちを理解してくださり、東北大学へ快く送り出してくださいました」。
須田先生は臨床の知識不足を挽回しようと東北大学の保存修復学・和久本貞雄教授のもとでどん欲に学びを深めていった。そして3年後、同窓の歯科医師の奥さまとともに独立することを決意。その話を聞いたお父さまは大変喜ばれ、歯科医師会に紹介するなどさまざまなサポートをしてくださったという。
ただし、一般的な歯科医院の継承というかたちはとらなかった。町内1丁目にあるお父さまの須田歯科医院が狭かったこともあるが、何よりも「てんでんこ」精神が発揮され、お父さまの歯科医院からそれほど遠くない2丁目に須田第二歯科医院を新たに開業することにしたのだ。ちなみに、「てんでんこ」とは石巻地方の方言で、「各自」「それぞれに」という意味だ。
診療スタイルもお父さまのやり方とは異なり、完全予約制による計画診療を導入した。それは、須田先生の「一人の患者さんは最初から最後まで、一人の歯科医師が全責任をもって治療したい」という基本的な考えからだった。ただ完全予約制が今ほど一般的ではなかったため、当初は「歯が痛いのになぜ先に診ないのか」と主張する患者さんもいたが、それでも基本的な考えは崩さなかった。「患者さんとのコミュニケーションを心がければ、おのずと患者さんは理解してくれました」と須田先生は話す。
オサダのユニット「コンビ」3台を導入した須田第二歯科医院は、須田先生と奥さまの二人三脚で地域の人々の信頼を得ていった。
レーザーは“歯科への革命的武器”。出番のない日はない
開業当時は“虫歯の洪水”と言われたぐらい、子どもたちの虫歯が多かった。当時、東北大学歯学部には小児歯科がなく学ぶ機会がなかったため、須田先生は診療の傍ら、小児歯科や矯正歯科などの勉強会や国内外の学会に積極的に出席し、最新の知識を吸収していった。
そうしたときに出合ったのが歯科用レーザーだった。1983年11月、FDI(国際歯科連盟)大会が東京・晴海で開催された。会場にはデンタルショーが付設され、オサダのブースでは歯科用レーザーが展示され、衆目を集めていた。「人混みの後ろからやっと見ることができました。大型で重々しく見え、いよいよ歯科界にもレーザーを応用する時代が来たとワクワクしたものです」と当時の印象を話す。
須田先生が実際に歯科用レーザーを手に取ったのは、それから8年後だった。「For Luck─みんなんために」というネーミングのハンディな半導体レーザー機器を試用した須田先生は、口腔内組織に効果的に働くことを実感し、レーザービームの不思議を知らされた。同時に、“歯科は歯痛との戦い”と考える須田先生は、レーザーを使用すると痛みを和らげられる点も気に入った。
詳しく調べてみると、この装置を開発したのは西山俊夫先生(西山歯科医院院長)で、日本歯科大学で自分と同期であることがわかった。西山先生はのちに、オサダライトサージの開発にも関わった先生だ。
須田先生は早速、西山先生にアプローチし、教えを乞いながらレーザーについて一から学び始めた。そして、“歯科への革命的武器”として、さまざまな波長のレーザー機器を臨床の場に備え、患者さんの症状に合わせて使い分けてきた。さらに、2019年にはオサダライトサージセルビーを導入し、「利用範囲が広くて、患者さんにも術者にもストレスが少ない」とほぼ毎日使用している。
東日本大震災の悲しみから立ち上がり歯科医院を再開
「ZOOM UP4号」には、須田第二歯科医院を「石巻の中心、商店街のビルの2階に、スッキリした雰囲気」と紹介している。
当初はこの記事にあるように、同歯科医院はビルの2階にあったが、年月が経つにつれ、高齢の患者さんが増え、階段の昇降が難しくなるなどの問題が出てきた。そこで、15年ほど前に近所の1階の場所に移転した。高齢の患者さんや車椅子の患者さんたちからは大変喜ばれたが、まさかその後、大変なことになるとは誰もが予想だにしなかった。
2011年3月11日、東北地方太平洋沖で起きたマグニチュード9の大地震は東北地方、特に太平洋岸の地域に大きな災害をもたらした。港町石巻も例外ではなかった。
診療した患者さんが帰った直後に大きな揺れに襲われた。須田先生は待合室にいたほかの患者さんをすぐに帰し、スタッフと一緒に近くの丘に登って避難した。
その日、奥さまは休診日で、自宅で過ごされていた。須田先生は奥さまに何度も電話をかけたが、つながることはなかった。奥さまは車で避難され、途中で津波に襲われたとわかったのはそれから数日後だった。
「私と一緒にいれば恐らく妻は助かっていたでしょう。そのことが今なお悔やまれます」
自宅は津波で跡形なく流され、歯科医院は海水に没した。そして最愛の奥さまも失い、茫然としている須田先生に立ち上がる力を与えてくれたのは患者さんたちだった。
「歯科医院の片づけをしていると中をのぞいて、『いつから診療を始められるのですか』と皆さんがたずねるのです。歯科医院を閉めようと思ったこともありました。でも、皆さんの歯科医院の再開を待つ声に後押しされて、もう少し頑張ってみようという気持ちに変わっていきました」
歯科医院を再開してからの須田先生の口癖は、「東京オリンピックまでは頑張りますよ」。その目標は2021年夏に達成した。「東京オリンピックのあとはおまけみたいなもの。枯れるまで、皆さんに迷惑をかけない範囲で続けていこうと思っています」と須田先生は優しい笑みをこぼす。
人から人へと継がれつづける須田第二歯科医院
須田先生は改めてご自身の歯科医師の人生を振り返り、こう話す。「自分なりに頑張ってきたつもりですが、もっと勉強しなければならない臨床科目があったような気がします。技術ももっと磨かければならなかったと思います。もし可能なら、大学に戻って、もう一度勉強したいですね」。
須田先生が70歳を迎えて始めたことがある。エレクトーンだ。お子さんたちが昔、弾いていたのを思い出し、練習しはじめたという。音楽はもともと好きで、ハーモニカはかなりの腕前で、敬老会などに招待され、演奏することもある。
開業以来ずっと定期健診などで来院する人や、そのご家族やお孫さん、何十年ぶりかでひょっこりと電話をしてくる元患者さん、ご紹介の患者さんへと継がれつづける須田第二歯科医院。これからもきっと須田先生は、患者さんとともに励まし励まされながら確かな歩みを続けていかれるに違いない。
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